シマとの対話

──沖縄の過去と未来について考えるとき、僕はシマと対話する。シマとは、僕にとって老賢者のような存在──  南島詩人・演出家として活躍する平田大一。県内外を縦横無尽に走り抜け、骨太な活動を続ける日々の中で、思索の森を歩き、刻む、真実の言葉たち。  平田大一がつむぐコトノハと、KUWAこと桑村ヒロシの写真がつむぐ、「新・シマとの対話」。2015年4月15日より新連載スタート!(毎月1日と15日に更新予定)

2008年01月16日

第11話『道標』(南島詩人・平田大一)

第11話『道標』
例えば
「平安座ハッタラー」
「笛吹きタップ」
「アンガマおじー」
僕が生み出した「お使い人」は本当にいるの?

舞台に出てくるあの世とこの世をつなぐ「お使い人」のことさ。
時空を軽々と越えては、主人公の子ども達とともに物語の核心にせまり
ストーリーテーラーであるところのあの者たちは本当に存在しているのか。

例えば
「シルベとカジ」
例えば
「キジとムナー」

物語につき物の「お使い人」は、とても非現実的だ。
現実の生活なら、「声が聞こえる」「霊が見える」「見えないものが見える」
って、とっても「変な奴!」って言われ、その存在さえも否定されるのに、
舞台や物語なら、普通に存在していたって不思議じゃない。
むしろ、必要な存在だったりする。

実際、僕自身「見えない何かに突き動かされて」
物語を紡ぐことが多いから、その「存在」は、否定しない。
でも僕には「霊感」はない。「声」も聞こえない。

きっと大切なことは「古の者たち」や「お使い人」達の
声なき声をしっかり「現実」というこの次元で
理解すること、理解しようとする「力」なんじゃないかな。

どんなに「声なき声」が聞こえてきても
「道なき道」が見えたとしても
それを見えない人たちには見えないし
聞こえない人には聞こえないのだから
誰にでも解るカタチで、「表現」というカタチで伝えるのが
僕等のシゴトなんだ。
僕が「舞台」を創るのはきっと、そういう意味があるのかも
知れない。

今、流行のようにいわれている
「スピリチュアル」なんていうものではなくて
もっと、この世を「タフに生きるため」の
「道標(みちしるべ)」として受け止めるべき僕のシゴト。



「前略 南のシマジマ」

ぼく、思うんだ。
大切なことは「この世」から「あの世」を見ること。
「あの世」から「この世」をみてしまってばかりでは、
間違いだらけで理不尽な「この世」の中にうんざりしてくるだろう。

でもね。
僕らは「現代(いま)」を生きている。
人間として「現実の生活」の中にいる。

肝高の子や物語の主人公達が「お使い人」からもらった
「想い」を胸に一歩前に進めたように
僕たちもまた、そういう「想い」をしっかり受け止められる
心を持ちたい。
そう思うんだ。

南島詩人 平田大一




Posted by 平田大一(Hirata Daiichi) at 00:00
この記事へのコメント
はじめまして スーミーはしていましたが、あまりの表現の鋭さと的確な言葉に、感動、共鳴するものの…「そうなんだよねー」しか言葉が出てこない、このボキャブラリーの無さ。私なんかがコメント入れたら、失礼だし、恥ずかしいと思いつつも、今日の記事には、「今、その言葉が欲しかった!」という事だけ伝えたくて、コメントしました。長くなったので、今日はこれまで。又来ま〜す!
Posted by たまご at 2008年01月16日 01:27
平田さん、私も常に「この世」から「あの世」を見つめる者でいたい。見えるとか、見えないとか、精神世界は漠然とした希望や不安を感じるだけで、一番大切な足元を見つめていない気がする。
私は私の気持ちを過去や未来に委ねることはしたくない。
人の歩んできた歴史は尊重するし、スビリチュアルな出来事に関しても否定はしない。
でも大切なのは、今、現実を生きる私たちが、何を感じ、それをどう表現できるかという事。
しっかりと、現実に生きる者が、自ら感じた事を表現する事。
それが未来へと繋がっていけばいいと思う。それが道標になると、確信しています。
Posted by 内間満 at 2008年01月16日 01:41